昭和52年06月16日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 これはどんな場合でもあってもどんな事であっても、腹を立ててはならぬと、という意事なんです。ね、もう確かに腹を立てたらおかげは崩れるです、ね、やっぱ一辺立てたから、もう一辺で崩れるという意味でもないでしょうけれども、これは確かにおかげを、言うなら一年で頂けるものが、三年も五年もかかると言う様なふうに頂いてもよいと思うです。ね、少々ぐらいな悪口ならよいけれども、それこそまあ極端な悪口とでも言うでしょうか、ならその身に覚えもない。
 例えば乞食じゃとか、又はあの泥棒だとかと、言われたらこれは普通から言うならば、腹を立てるのが当たり前、ね、それこそ食って掛かっても当たり前。それこそ裁判に訴えても名誉毀損で、その訴えてもよいほどしの事だとおもうです。ね、あれが泥棒だなどとと言われたらそうですわね。ね、問題はそこに泥棒をしておらねば良し、乞食じゃと言うても、貰いに行かねば乞食じゃなしと、ね。
 ですからこの辺の所がね、自分自身これは矢張り猛反省をしなければならない事であると同時に、腹を立てんで済むと言う事が、はあここで腹を立てちゃならん、腹を立てちゃならんと思うて、ただ自分を抑えておくだけではいけない。ね、石井喜代司さんじゃないですけれど、腹を立てたら馬鹿らしかと言う事ですけれども、ほんとの事が分かれば馬鹿らしかです。
 けどそん馬鹿らしいから腹を建てないいうだけでも矢張り一心、ほんとの事が分かり、信心が段段分かって来れば来るほどにね、そこをむしろ有り難く受けて行く様な心すらでけて来るのが信心だと思う。先日も熊本の山田先生が、今度植木教会の教会長としての、相談があっとりましたから、それで教務所にまあ、呼ばれて私の変わりに、若先生が行ってくれました。もう散々まあ合楽の悪口をこういう評判があっとる、こう言う事だとね、例えば合楽はその植木教会を買収して。
 そしてその植木教会を、まあ自分の教会にしょうとして思っておっともうほんとに、ちょっと考えたらすぐ分かる様な事を、その平気で先生方がそれを四時まで色々言われたから、勿論そのどの一事でも、説明の出来ない事はありませんし、ですからこうだこうだとまあ、説明をしたと言っておりますけれどもです、ね、とにかく他所の信者を抜き打ち的に、もう手段を選ばず、他所のまぁ信者を取ると、ね、まぁそういう悪口は合楽の場合、いつも聞くんですけども。
 けれども私がまあこれは思うことですけれども、例えばそう言うふうに悪口を言われるような、例えばここが教会であるとするならばです、人が助かると言う様な事は、ないと思うです。ね、もし私がしておる事が言うておる事が、それがあの間違っておるならば、ね、神様がおかげをくださるはずがない、こちら自分の心の上にも、例えば腹を立てんで済むどころか、矢張りお礼を申し上げるような心やら、生まれてくるというのは、はっきりそこに実証があるから、おかげの実証が、ね。
 おかげの証しがあるから、成程神様は見通しだな、神様は聞き通しだなと言う事が分かるのです。ただ神様が見通しだから、神様が聞き通しだから、いかに馬鹿といわれても阿呆といわれても、いや泥棒だ乞食だといわれても、神様の見通しの世界に、生き抜く事が信心だからと、ただ辛抱しておるだけではいかん。ね、確かに見通しだな確かに聞き通しだなというおかげを心の上にも形の上にも頂いて初めて、それが言えるのではなかろうか。ね、そういう印もないのに、ただ神様が見通しだから。
 ただぐうぐう言うて、その涙を呑んでおるというだけではね、神様が知っちゃるけん、神様が見てござるから、となら血の涙の出る様な思いをしとったんではまだ、ほんとのこっちゃないと思うです。ね、腹を立てなとただ腹を立てるのを一生懸命抑えておるというのではなくてです、ね、どう言う事を例えば言われようがされようが、こちらの心の中に動かないもの、有り難いもの又は、その有り難いものを頂いておる証拠に、この様なおかげも頂いておる。
 成程神様は見通しだな、聞きどうしだなと言う事を、体験を通して思えたときに、初めて有り難い辛抱も出けるし、ね、そして必ずね、自分たちの言うたり思うたりしておった人が、ね、地を低うして来る時事になったり、ね、お詫びをして来る事になったり、分かって貰える時期が必ず来る。やっぱり合楽の生き方が本当だと言うふうになって来る。ね、だから問題は腹を立てなと言うから、腹を立んと言うのじゃなくて、ね自分のなら間違いない生き方をさせて頂いておる。
 これが本当だと言う事を確信して、進んで行っているならばその確信に対して、必ずおかげが伴わなければならんと言う事です。心の上にも形の上にも、それで初めてはあ、成程神様は見通しだな、聞き通しだなと言う事になるわけです。ね、昨日の御理解、昨日の御理解は、天地金乃神様のおかげが金光大神のお取次ぎによって頂けれるようになったとこう言っておられる。
 所がその天地金乃神様のおかげが受けられる様になったというのは、ね、いうならばそれこそ信心を頂かなければ、頂ける事ではない、いうならば不思議な不思議なおかげが頂き続けていけれると言う事、天地金乃神様の特別のお働きを頂けれる。にも拘らず最近天地金乃神様のおかげが受けられるようになった。そしたら天地金乃神様のおかげをです、ね、信心がなくてもおかげはやってある、というおかげを非常に強調する様になった。ね、天地のご恩徳を解き、ね。
 天地の言うならば大恩を説く、ね、信心はなくても矢張り天地の御恩恵に浴しておる。そのご恩恵に浴しておる事を強調する。それを分からせる。分からせたらおかげが頂けるように思うておるけれども嘘ですね。分かったらおかげを頂くという分かったらというのは、心の中に翻然として悟りが開けてくる、と言う事なんです。ね、だからそれはもうすぐおかげに直結するです。
 分かると言う事は、これは素晴らしい事です。ね、けれども理詰めでほら、例えばあんたどんが生きておるという、目が覚めたというても、ね、御食物一つだってひとすくいの水だって、皆天地の親神様の御恩恵のものばい、だから有り難く頂かにゃいけんよと、教えられりゃ成程そうだな、天地の御恩恵なしには、何一つ出来んのだと言う事が分かるけれども、それを分からせたり分かったりだけでは、天地金乃神様の特別のおかげ、信心をしなければ頂けない。
 特別のおかげというものが、非常に散漫になって希薄になって、ね、そして受けられるようになっていっておる状態が、今の金光教の信心のがそういう傾向にあるんだという話を致しましたよね。同時にだからなら、そういう天地金乃神様の特別なおかげを受けられる、それを不思議なおかげとか奇跡的なおかげと言う事にもなるでしょう。ね、そういう例えばおかげを受ける事と同時に、成程知らぬ事とは言いながら、ね、長年の間天地のご恩恵に浴しながら。
 天地に対する所の、神恩奉謝の生活のでけなかった事に、気付かせてもろうて詫びる、同時にその天地のいわゆる、信心のないものにでもおかげをやってあるというおかげに対して、お礼が言えれるようにならなければならない、と言う事でしたね。昨日のご理解は。そこで昨日研修んときです、皆さんがその色々発表するのに、皆が書いとる事はね、今の金光教はと、今の金光教はいうなら駄目だと、こういう傾向にあると言う所を、ぴっしゃっとキャッチしているわけです。
 なら今の合楽はとはいっていない訳です。だから私はそげなこつをもし、なら矢張りなら教会、合楽を妙な目で見ておる人たちが聞いたら、ほらもうほんとに合楽ちゃ、もうろくな奴じゃなかばいもう本部の悪口、金光教の悪口を自分で言うとだけが、もう最高のもんの様にいうて、よそんとは全部間違うとる様な事を言うておると、ね、例えば創価学会当りが、もう他の教会宗教の事はもう、それこそ邪教だと決め付けています。ね、しかも、言うなら同じ南無妙法蓮華経でも他のは全部もう邪教だと。
 ただ創価学会だけの日連上人様がほんとなものである。南無妙法連華経がほんとなもんだと、もうはっきり言うわけです、ね。だからそのまあある意味で、ならそういう意味でなら評判が悪いわけです。ね、けどやっぱそれを言うておかげを受けておる事実があるわけですね。だから合楽も徹底してです、本部は間違うとる、本部はそげなこつじゃいけん、合楽が一番ほんとなもんだと、まぁ言うても良いけれど、金光大神の教えはそうじゃ無い。ね、金光大神の教えはです。
 違うとるとこは違うとるというても、なら自分たちの違うとる所も、それによって分からせて頂かにゃならない。なら金光教で皆さんが信心させて頂いておる人がです、はたしてどれだけ信心はなくてもおかげはやってあると言うおかげに気付いて、心から神恩報謝の生活がでけておる人が何人おるだろうか、昨日毎日日参してくる、昼に参ってくるある方が、自分の勤めておる会社にの人達に、おかげの泉をずっと毎月配る、ね、合楽だよりも差し上げる。
 まぁそうして示現活動をさして頂いておるというわけなんです。所が先日その昼のお茶のときに、皆が集まってあのあんたから頂いておるあの御本ば、読んでどうでん一つ私を一辺連れて参ってくれんかというて社長さんが言わっしゃった。そして問われるのに大体金光さんちゃ、あのおきつねさんですかと言われた。ね、大体どういう神様を拝むとですか、と言われたけれども、説明がでけなかった、大体どげん説明したならよかですか、というて昨日、その事を質問されました。
 だからこれはほんと、愈々あんた勉強不足の、毎日あんた御理解頂いて帰りとるとじゃばってん、というてまあ簡単に色々話したんですけれども。そういう程度の人も合楽には多いのじゃないでしようか。おかげは受けてはおる、だからおかげの有り難さを人にも、なら示現活動もでけておる、けれどもなら愈々合楽の信心は、と問われたら説明がでけない、という人達があるのじゃ無いだろうか。
 聞き所を聞とらん頂所を頂とらん、おかげだけは頂いておるけれども、ですからなおさらな事、信心がなくてもおかげはやってあると言った様なおかげには、気付いていないと言う事なんです。ね、だからこそで今の金光教は、ね、全体においてこういう傾向がある。上品にように言うなら、すんなりとした信心むしろ奇跡的なおかげと言う様な、おかげ話しなんかはもう出来るだけ話さんように排していきよる。
金光教の信心は天地のご恩徳を悟って、天地の大恩を分かってその神恩、大恩に対してこたえ奉っていく生活をすんなりと、生活の上に表して行く事だと。成程そうだけれどもそういう生き方になったら、なら今度はね、天地金乃神のおかげを受けられる様になった、金光大神御出現以来、天地金乃神のおかげを受けられるようになった、というおかげが、受けられんようになったと言う事実なんだ。
 それをなら合楽で受けておるがです、なら今の金光教ではそういう言う傾向があるけれども、合楽にもこういう欠点、こう言う傾向があると言う事をです、合楽の信者は大体お前どんどういう神様を拝みよるかと、いうてどういう信心かと、金光大神ちゃどういう人かと言われても、それに説明すらでけない人達がもし、沢山あるとするならば、そりゃ、金光合楽の信心は愈々低級視され、しされなければ仕方がない。
 ただおかげ頂くから、そらおかげ頂くから、というたらとにかく一辺参ってみなさい、おかげ頂くから、ね、だから合楽にはそう言う傾向があるわけなんです。そこでここで打ち出されたのが合楽理念なんです。ね、合楽理念に基づいた生き方をするならばです、ね、天地金乃神のおかげも受けられると同時にです、天地金乃神様のお心も分かる、天地の大恩も分かってくる、ね、天地の道理も分かってくる、そん道理が分からなければ、道理に添うた生き方はでけんばい。
 しかもそれを見やすう、たやすう言うならば誰でもが、頂けるような信心。ね、だから、なら例えば合楽理念ちゃうが大体、合楽理念ちゃどげなこつの、と聞かれてからなら私は答えれれる、それにれる人がどのくらい合楽にあるだろうかと。そういうおかげを頂いてこそ始めてです、ね、天地金乃神のおかげを受けられる様になったと言う事と同時に、今まで受けてきた、信心がなくてもおかげはやってあると言う様な、おかげが頂けれる。
 昨日日田の綾部さん、朝からあの御簾の御用で終日御用を頂いておりましたから、あの、朝のとき食事を一緒にさせてもらいました。その時に話しておられた事でしたけれども、先日あるご法事に呼ばれた、親戚のそしたらそのお坊んさんが、ご法事を終わられた後に、もう親先生が言いなさる様な、天地の大恩天地のご恩徳と言う事を、もうそれこそ素晴らしい話術でお話になったというのです。
 だからどんなに素晴らしい、あらゆる角度から、天地の大恩を説いてもです、ね、天地の道理を説いてもです、それではなら、生き生きとしたおかげをうけられると言う事ではない。言うならば、金光教も今朝からの御理解頂くと、もう仏教的になって来たなと、ね、仏教が言うなら、金光教的になってきたと、言うのと同時に、金光教もまた仏教的になって来たなと言う事と同じでしょうが。
 天地のご恩徳を道理を説いて、こういうおかげを受けているんだ、しかもこれは信心が無くても、そのご恩恵に良くしているんだと言う事をです、徹底してならいくら話した所で、天地金乃神のおかげがうけられる様になった。信心しておかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ、ね、信心しておかげのないときぞ、不思議なることぞと言った様な教えが、あんまり引用されなくなってきた。
 おかげの頂けんとが当たり前、いや、おかげを頂いたのがちっとおかしい、あれは低級だ と言う様ないうなら見方ですらが、金光教の中に段々でけて来た、と言う事なんです。だから今日のうちの修行生の発表の時に、今の金光教はまいうなら、誰でも皆今の金光教ばっかり言ってるけれども、それに今の合楽教会はと言う事も言わなければいけないよと。果してどれだけ、なら合楽理念に徹した生き方がでけておるか。生き方がでけておるならば、言うならばお心に添うた生き方がでけてよらなければいけん。
 しかも楽しゅう嬉しゅうでけよらにゃでけん。出来ていないとするならただ天地金乃神様のおかげを受けられる様になったという、そのおかげだけを合楽の人達は受けておるのですから、こりゃなら合楽の信心も低級だといわれても仕方がない。合楽の信心の素晴らしいのは、合楽理念に基づいて、合楽理念の確立を銘々が、なそうとして精進しておると言う所に、いうならば、素晴らしいと言う事になるのですから、それを知らなかったり、行じなかったりしとったら。
 いうなら合楽の信心も、また低級だといわれても仕方がないわけなんです。ね、ほんとにその、ほんとに信心になっていっておると言う事なんです。昨日は富久信会でまぁ色々お話しを聞いたり、させて頂いたりしたわけなんですけれども、感心する事が二事あった、お話しを聞きながら。昨日はあのたまたま、合楽に呉服屋さんが何人もありますから、先日からお届けがあって、ね、そのいついつまでは、に必ずその着物がいるから、仕立てを、あの請け負うておった。
 ところがまあころっと忘れておった。電話が掛って来た。けれども中々さっと行って間に合わなかった。もう向こうに持って行った時には、もう他の着物を着てから出かけござるとこじゃった。そしてもうあんたがたんとはいらん、と断られた。もうそげなこつ言わんな、もうしっかり仕立てはでけとるけん、とまあ納めるとは納めたかもしれないですけども、そう言う事がもしちょいちょいある様な事では、店の信用はもうがた落ちですよと、ね。
 お互いがお商売人ばっかりですから、お商売の中にそう言う様なとこがありゃせんだろうか、とにかくあの合楽で信心させてもろうて、商売させて頂いておる人の、商売の願目というのはです、ね、いかにお客さんに満足して貰うかと言う事にならなければいけないんです。満足どころかいつもあそこはあてにならん、もうあそこはむごう言うちくるけん、買うばってんか、もうほんとあそこばかりは、当てんならんと言われる様な事では、どうなるでしょうか。
 だからほんとにこのことだけは一つ、それこそ何事にも信心になれよ、と仰るからきちっとした、なら納品なら納品がでける様な、まあすこは間違わんと言う様な商売させてもろうてから、どうすりゃ儲かるか、どうすれば商売が具合いくかと言う事は、その次だよというて、ま話した事でした。ね。根本的にもう間違うとるじゃないかと、ね、お客さんに満足どころか、いつも不平不足をしか与えていないと言う様な事で、商いを本当にしていくと言う様な事ではもう。
 信心になっていないんだと、と言う話をさせて頂いた後でしたから、その石井喜代司さんがこう言う事を、言っておられます。私は大体人間が非常に、その弱いと言うわけです。例えば物を頼み行ってから、向こうが忙しかなら、ならよかもううちんとは、後からでよございます、とこういうふうに言うというというわけです。だから気の弱い人はです、もう、いつでんよかばの、ちゅうごたるふうにいうちゅうわけです。例えばなら仕立てひとつでもです。だから、私は弟の誠之助さんちゅうとがおりますが、ね。
 弟にいつも言っておる事は、例えば納品なんかの時で、いつでもよかと言うふうに言われる所ほど、あの正確に早う持って行けと、言うこれが私の主義だと言っております。なうしかというとね、そういう人は必ず気の弱い人だと、心にはもういっときでんどこよりも早く貰いたい、と思うておってもそげん忙しかなら、なら後からでもええち、言うとは気の弱か人だから、そういう人ほどにいうならば、正確な納品をせろ、まぁ、一事が万事そうだという。
 話を聞きながらだから、おかげを頂く人は違うと思うました。私でもそうです。むつやにこの頃もうこの頃ちゅうか、もう何ヶ月になるでしょうか。幹三郎の茶着物を頼んだ。ほいげ、大変まぁ忙しそうにしとるけんで、そんひと切り付いてからでいいと私が言いました。所があの何回か私が言うたけれども、まだ出来とらん。そいで大体そげなこつじゃいかんよ、ちゅうたら奥様にその寸法を、もう何べんも聞いたばってんから、あの奥様がようと教えてくれなさらんけんで。
 ほんならあんたげんじゃなか、私が悪かっちゃんの、とまあ言うた事でじゃったけれどもです、ね、着物を頼んだなら作ってやるなら、はよう着せてみたい又自分も着てみたいのです。ね、それをおしやりけやりの様な事では、そしてそこに言い訳してああじゃったこうじゃった、と言う様な事ではほんなこつじゃ無いよ、と言う様な話もまあ出た事でした。ね、最後に文男先生がこういう発表をしておりました。
 この人も呉服屋さんですから、ね、いわゆる仕立て屋さん湯のし屋さん、まぁ帯なら帯の専門のその仕立て屋さん、色々関係があるわけです、ひとつの着物仕立てるためんでも、所がその私のほうの頼んでおるそこの、仕立て屋さんはです、ね、私が頼んだらもう絶対正確に納めんならんという、雰囲気があるという話をしとりました。お願いしますよち、早ようお願いしますよちいうこつも何にもいらんと、ね、うめや支店の方からの注文が、仕立てを頼みに来たらです。
 何ちちゅうたら何日に必ず、あの納めんならんとも、思い込んじょるて、私はそれを聞いてから、ほんとにそれこそおかげ頂く者は違うと思いました。もうそれ、ね、教祖様がね例えば、ね、私の言う事をね、守って良く信心するならね、ここで修行する人たちの上にも、又御信者さんの上んでも、おかげの頂けん筈はない、特に布教に出て、布教で何年も苦労せんならんと言った様な事はない、必ずおかげは頂けるて。ね、文男先生なんかの場合はですね。
 それこそ信心を元にして、その仕立て屋さんなんかと正確な、いうならばお付き合いがでけておるわけです。どこ行ってもだからなら、文男先生が何日までお願いしますと言うたら、もう何日までに納めんならんと言う雰囲気が、どのお付き合いしとる仕立て屋さんにでも、あるとこう言っとるです。ね、その代りに何日と決めたら、取りに行くとも、時間もたがわんように、取りに行くというのです。
 ある人はなら、何日まで取りにと言うといてから、あくる日どん取り行ったら、あくるあくる日どん取り行ったりするから、はあ、あそこんとはあんまり正確じゃなかったちゃよかばいのちゆうふうに思わせるわけです。そしてほんとにいる時には、やあやあ言うたっちゃ間に合わんちゅうような事になる訳です。だから事前の信心と言う事が、私はその大事所謂何事にも信心になれよと言う事が大事。
 秋永末永先生が、いかに十年間の修行の中に、なら師匠大坪総一郎の言う事に背かぬように良く守っておるから、現在ならビリグイでああ言うおかげを頂いておると言う事になるんです。ね、自分がいい加減にしなきゃならない様な元を、ちゃんと自分が作ってる。そしてやあやあ言うておかげを知らぬ。ね、日頃ちゃんと言う事を聞いておかなければならない。人が例えば泥棒じゃ盗人者と言うても腹を立てなと言う事。ね、だから腹を立てんで済む、その前の信心ができておらなければならない。
 ただぐうぐう言うて辛抱しておるというだけでは、いけない。ね、腹を立てないで済むだけの信心を、その事前に頂いておかなければならない。ね、昨日ある人の話がゆうべ出ていました。その人が言う事は、とにかくまぁ教会には例えば、そげんしげしげ参らんでも、ただ有り難う一切を頂いてさえいきゃよか、もう確かにそうです。もう金光様の信心はこの方の道は、有り難い有り難いで開けた道だから、有り難いでは苦労させんと仰る事なんです。
 だから有り難い有り難いで受けておる人がです、なら苦労をせんで済むおかげを頂いておるならば、その人の言う事はほんな事です。ね、なんでもかんでも有り難い有り難いで受けていきよってです、さあ家庭の上にも金銭の上にも、人間関係の上んでも苦労しておるとするならば、その有り難う受けてさえいけばよかがの、と言うとでは通用せん事が分かるですね皆さん。
 どこまでも精進、ね、もうどげん時でん、腹たてんでさえしがいがのと、じゃなくてなら、腹を立てんならばです、もう絶対その腹を立てんと言う事に、おかげが伴のうてくる、ね、有り難いというてその有り難いに必ずおかげが伴う、自分の心の上にも形の上にも。だから腹を立てんで済むんだと。それが間違いない事ですから、ね、腹を立てんと言う事でも、なら一切を有り難く受けてさえいきゃ、よかとか言う人もです。
 自分のはこれはほんとの有り難いのじゃないのだろうか、その証拠には苦労はさせんと仰るのにこげん苦労が幾つもある。人間関係の上にも金銭の上にも、ね、そんならです、ね、自分の有り難いと受けている受け方は、まだほんとのものじゃ無いと、恐らく気付いていくでしょう。ね、気付いて行って初めて、真に全てを有り難いと受けていけれる時にはです、もうそこにはいやと言うても、おかげの方が伴のうてくる、おかげを頂いて初めてです、成程腹を立てんで済むと言う事になるでしょうが。
 ただこらえて腹を立てんと言う位な事では、本当な事ではないと言う事。腹を立てなと言われるが、ね、腹を立てんで済む信心、それには例えば腹を立てんとこの様な天地金乃神様のおかげが受けられるようになったと言うおかげが、こう次々と頂けてくる、現れてくるというようなおかげを頂いて、初めてほんとな意味での腹を立てよらんのだ、ほんとな意味で有り難く受けよるんだと言う事になってくるんです。
その辺の中途半端のとこがね、あのではおかげにならん、いかにそれこそお寺の坊さんが説かれる、天地のご恩徳、天地の道理を聞いて、ね、盲が目が開いたびっこが立ったと言う話を聞いた事がない。どこまでもただお説教である。ね、所が合楽でならその、教えを頂いてです、ね、ほんとに合楽理念に基づいて、天地の大恩が分かり天地の道理が分かったら、それこそ盲が目が開き、びっこが立つほどしのおかげが、必ず伴うのうて来ると言う事なんです。
 ためには言うならば、昨日の御理解から言うと、ね、今の金光教はと例えば私がこういう傾向にあるんだと、だからこれを起こしなおさなきゃいけない、そういう一つの使命感の様なものを私は感ずる。為にはなら合楽でただ、天地金乃神様のおかげを受けられるようになったというおかげを頂いておる、ただおかげだけを私どん、間違うとらん証拠に、こげなおかげを頂きよるよ、と言うただけでは通用せん。合楽理念に基づいて、かくおかげを頂いておると言う時にです、ね。
 いわゆる金光教の信心の素晴らしいと言う事が言えれる。いうならば天地金乃神様のおかげを受けられるようになると言う事と同時に、信心はなくてもおかげはやってあると言うそのおかげにも、心から気付かせもろうて、日々神恩報謝の生活がでけると言う事になるのです。今日は少しあの回りくどかったようですけれども、ね、腹を立てなと言う所に焦点を置いた、ただ腹を立てなと言われるから、腹を立てんというのではなくて、ね、立てんで済むほどしの、信心を身に付けなきゃならないと言う事で御座いますね。
   どうぞ。